はるさめーせん

わたしゃもうダメなのだが、まあしかし生きねばならぬ。なぜ。私が「最低限こうあるべき」という人間に生涯のうちになれはしないと分かっているのだから、死は正当化されると思うのだが。ははは、まあのうのうと生きていられる人間のオナニーである。ほほ。

本当に久しぶりに何もやっていない。やるべきことはある。というか、やろうとしているのだが、中間発表が終わってから何もしていない。

死んだ方がいい。いやはや。

私はADHDと思っていたが、カウンセラーが電話口で私を説明する際にADHDASDと言っており、ついてたんやあと。なんか、退路がない。相談したことであったはずの退路が消えた気がする。いやまあなかったのだが。しかし、それに無自覚でいられたのは確かだ。

ダブルラリアット。小麦を摂り始めたらまあ体調がよくないが、別に元から体調がよかったわけでもない。

迷走ばかりか。

いおjhsぢあ

私一人の命ではないのだし、という言葉は呪いである。本当に、私は。まあ来年?再来年?とにもかくにも私に能力がないにしてもなんとか進路変更をせずに済む三月までは生きるか、とも思うが、別になんというかその制約はどこからきたのだ私はもう、生きていけはしないのだが、息はできるのだが、しかし、まあ生き続けようとは思わないのだし、もし親に自殺する旨w伝えてはいそうですかと終われようものなら死ぬのだろうかわからないが、昨日まあ再来年までにどうにかなってなかったら死にますみたいなことを伝えるとそんなことをいうんじゃないよくらいになだめられたが、それは親の責務としての発言か、実際私がニートになったらいやだろう、まあまあ未然の処置として自殺の時はいずれ来るのだろう。

能力の不足。私は自分が嫌いである。なので死ぬというのは筋が通っているだろう。何もできないのだ、私には。何もできない。私は本当に何をするのもおっくうで、躊躇してしまうし、ネットのスキルやら技術といった文言を見るとえらく疲れてしまうし、世の中に向いていないのだ。これは本当に誰からも理解されないだろうし、私も理解してもらおうとは思わないから、まあやはり自殺しかないのだろうな、と。

今のうちに栃木の旅館やらに予約してみても面白いかもしれない。華厳滝は確か栃木であったと思うし、止まった次の日に飛び込むというのは実に愉快な江連である。

精神ていな問題なのだろうか、能力の不足は精神医関係ないだろうと思うが、その判断も精神の影響だとすれば果たして。

生きていたくはないなあ。このままなら、本当に。別の自分に、というのは死亡フラグである。とおざけねば。

私は素質がなく、このまま来ていてもどうしようもない。そればっかりで。本当に。それを毎日ひたすら考えるというのは本当によくない。

発達障害医療機関に予約を入れなければならない。そうするように言われたのが二週間前だろうか。本当に。

卒論の中間発表が終わった。聞いているにんげんは何を思ったか。きっと馬鹿にしていることだろう。ただの妄言をよくもまあ卒論で取り扱おうなどと。担当教員は私を過信している。人並を期待しているとすれば、それは間違いで、私は本当に無能で低能であらゆる分野に及びがつかない知的好奇心のない怠惰な生ごみでしかない。

なぜこんな気持ちなのか。いやはは。死んだら楽である、先がないので。市場価値やら適応力やら、本当に厳しいもので、だったら死んでしまえばいいのだ。

みんななぜ生きているのか。多分八割がた死にたがっているだろう。一斉に死んでしまおうではないか、いけないのか。

kkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkk

クッキー。食べない方がよい。

人生は楽しいことばかりで、本当にありがたい。

精神の不調ではないのだ。むしろ安定している。それはそれとして私は死ぬべきである。それが何より自分のためで。

私は頭が悪い。

膝、。

ピンク・

日光・

よくわからないのでやめた方がよい気がする

眠いのか、だいぶネタが。

るえぎ

エントリーシートとかをね。いや、私は本当に苦手で。

高校とか、そこらで一回自殺は経験するべきだっただろう。今自殺が失敗しても天気にはなりえない。

作品を最近は、アニメやら映画やら見たのだが、きおくとして定着しないので無駄なのではという。

スペックの低さよ。嘆くばかりだ。

本当に。

駅に行きたいな。しかし、私は笑われるのでは。

自制心・

まともに文章を書きなさいよ・

wこ

私に能力がないのははっきりしているのだから、とっとと死んだほうが良いのは確かである。

ただ、結局これは「死ぬのはアパートの事故物件化とか捜索費用とか葬儀代とか親とか兄とか介護問題とかを考えたら無理だよね」という結論に行くだけなので、堂々巡りである。なのでまあ生きるのだが、この話も何回目だ。

能力が無いから死のうという話なのに、生きることを真剣に考えねばならぬというのは訳が分からない。就職支援課とか、精神科を頼るほかない。しかし、私は未だに就職支援課に赴くことも精神科を予約することも出来ずにいる。だから発達障害なのだが、それを直すにも邪魔をするとは何事か。

自殺オフ会とか、仮に行ったとしても恐らく私よりよほどきらびやかな人間がいるのだろう。

憂鬱というのは一種の準備態勢というか、今後の展望の価値を0と認識させることで自殺を正当化させているのでは、とか思ってしまう。

平和である。今日も今日とて。しかし、私は情弱だからやはり悲観的に捉えてしまうし、ならばいっそとも。いやまあ、なんだろうか。

私には素質がなかった。それに尽きる。もう終わりにしてしまいたい。

新しいことを、無駄なのだが、しかしまあしなくては。やるべきことも。やるべきことをすると寿命が延びる。刑期も。世の中というのはシビアで、私はそのシビアさから逃げることを非難するのはよくわからないのだが。少なくとも苦しさの中に生きる義務というのは変な話で、それはどういった理由に基づいているのか。現行人類のシビアさというのは人口減少によってより厳しくなるから自殺はいけないのか。

シビアさが私は曖昧な使い方をしている。ダメな論理。なんだね。眠い。寝てはならぬが。深夜は鬱々となり、結果駄文をポイ捨てする。これを連続して。私はやはり死ぬべきというか、まあ私のために私は死ぬべきで。

生きている意味が分からない人間は多いらしいし、じゃあ死んで良いのではとも思うのだが。ここでもやはり語の定義が曖昧で、意味はないと言いながら何の気なしに生きている人間の用法とはまた区別すべきである。まあ、私はそちら側だが。

ははは。私は何も持っていないし、何かを持つこともできない。他の人間は私を見てそれとは分からないだろうが、しかし私は今日見聞きしたことを反復するのすら厳しい。この悩みは一生理解されないだろうから、まあ死ぬほかないのだが。

誰か私の存在の代わりだけこなしてくれやしないか。そうしたら私はもう好きに出来る。

そんな、パイの取り合いをしてまで私が何かをする意味は無い。人は途方もない。多すぎる。しかし、私は私でしかないらしい。なんてこった。それは代替可能であるべきだろう、本当に根本的な意味で。

ぼのごどぼ

生きづらさの獣がよ、という。

私は虚栄心の塊でやはりダメなのだが。いやはは。

何もない、何も。

知的好奇心がなさ過ぎるのは素質の問題で、果たしてそれが命を捨てる理由として受け入れられるかが問題なのだが。問題で。

私はどこに居るのだろう。結果が見えている勝負をこの先何十年もやっていくということに、多くの人間はどう向き合っているのか。さすがに私みたいな人間は他にもいるはずで、何なら九割方私と同じようなもんだと思うが、彼らはそうした事実を受け入れて、とはいえ生きることを義務として生きるのか。

わからない。うははは。あ

かえるら

着手せねば。やり方は分からぬが。

たまに、私は自分を過大評価してるのか過小評価してるのかわからなくなる。人生において全く努力しなかった割には上出来な人生ではあるが、努力できないのだから無能である。

まあ一年後の結果発表を楽しみに、という感じだ。華厳の滝とかだろうか、考察に委ねるエンドを。

訳も分からず。訳も分からず、というワードをよく使う。本当に何も分かっていない。

私は年齢にそぐわぬ自分の幼さが嫌で、きっと子どものまま死ぬのだろう。ただ、子どものまま生きるよりは幾分かましではある。

頭が重くなる。新しいことを。しかし、課題が。やるべきことに手を付けることの難しさよ。

親にどう切り出すか。どうにもならないか。いや、どうにもならないことを知っておいてもらうということであって。

なぜ私はこうも、自殺のことばかりを。死ぬべきだからで。いや、しかしまあ。