切り取り線の付いた遺書

休学を考えてる国文四年。ゴミでもあり。

雑記

せっかく色々見ているのだし、何か感想を書き留めねばということでここに。排泄みたいなもので、しかるべき便所で行おうという心構えでもある。

 

lain

 

視聴前はサブカルチックな雰囲気アニメを予想していたのだが、きちんと作品として面白く、また題材も好みのものでよかった。

一周しただけでゲームにも触れていないから完全に理解できたわけではない。なので、完全に面白さを理解したかといえば、そうでもない。

所々哲学的な用語も出てきた。例えばプシュケは、古代ギリシアにおける気息、我々の身体を満たすエネルギーのことであったと記憶してる。記憶力が悪いのであてにならない。恐らくはソクラテス裁判でソクラテスが言った言葉(私が死んだとしても、私の魂はプシュケとしてこの世に留まる)をうけて、肉体によらない生という意味あいももたせていたのだと思う。

lainについてもフロイト的な要素があったりするのだろうか。私はフロイトを一ミリも知らないのでなんだが。無意識ネットワークは阿頼耶識(仏教?)とかが由来?わからない。調べたらユングとあった。ユングを何も知らない。ああ、無学無学。

無意識として各人に備わったlainではなく、個人として現実に存在する岩倉玲音と友達として接してくれたのは唯一ありすだけであり、最後は彼女を救い、各人のlainを消し去って、一人の少女としてありすと会って終わる。だいぶ百合チックな気もするが、はたして。

だいぶ前に見たものだからだいぶ記憶が薄れている。やはりすぐ書かねば。

 

テクノライズ

 

まあlainを見たからね、ということでこれも。この前に灰羽連盟も見たのだが、あまりピンとこなかった。

テクノライズの方はすごく面白かった。退廃的な世界観と、詰んだ状況で各人が歩む生のあり方を描いており、鬱アニメ(めちゃくちゃ嫌いな括りだ)で雑多に括るのがもったいない良作である。何よりいいのがラスボスの立ち位置であり、彼は全てを見通す神みたいな存在であるのだが、その実他の人々と同じように生に真剣に向き合っており、結果としてあのような惨劇を起こした、ということである。あくまでわたしの解釈である。

作品の中ではそのような描かれ方をしない。彼は冷酷で、人の体を組み替えた兵器を量産して大量殺戮をする、生きようとする主人公達に相対する死の側の人間とでもいうような描かれ方である。実際ドクは彼に失望し、自分は生の道具を作ってきたつもりが彼にしてみれば単なる兵器でしかなかった、というようなことを言っている。

しかし、最後の最後で兵器の中の人間が「俺たちはこの体によって生きながらえる」というようなことを言う。また、その足は樹の根のように地面と一体化している。思うに、ドクの技術を彼が拒んだのは方向性の違いからではなく、単に彼女の地点をとっくの昔に通過していたからではないか、というのが私の考えである。

 

実際、主人公の生のあり方では人類に未来はないのだ。彼は成り行きに任せて自分の道を進める傾向にあり、そのような自然に任せるやり方は旧来の生殖能力を持った人類であれば存続できたが、そうではない今となってはただ死を迎えるだけなのだ。だから、全く新しい生の追求が必要になる。それはきっと旧来の人々から見ればおぞましい、グロテスクなものになるだろう。しかし、そうでなくてはもはや生き残れないのだ。

今作の主人公の描かれ方は独特である。前半ではほとんど自発的にしゃべらないし、行動の動機もほとんどわからない。ただ目に付いたものに殴りかかり、都合良く認められ、後半に至る。果たして、これが生きた人間だろうか。

生には精神的支柱が必要である。それはこの作品の場合、特定の個人である。連合にとっての総長、ドクにとっての主人公、組にとっての大西、下層にとっての蘭、等々。

一番最後で蘭はさらわれ、ラスボスの手で機械の体と融合される。鬱アニメと言われるゆえんであるが、これは単にとってつけたような、胸糞だけを狙った展開ではない。

ラスボスは生きようとしたのであり、それにはこれから生きていく人々を統べ、またその未来を予知できるような精神的支柱が必要である。もちろん、恒久的に。だからどうするか。蘭をさらい、機械化する。生を望む伽ノ(ラスボス)からすれば当然の帰結なのだ。あの展開を非難するのは勝手だが、少なくとも作者の自己満足ではないだろう。

あくまで一度見ただけだが、私の解釈としてテクノライズは生の物語である。どのように生き、どのように死ぬか。いったいだれが正しかったのかも私には分からない。

ただ、本当に名作だし、どうか全部見てから私の解釈を全て殴り壊してくれ。