十六日目

そうであったりもする。

あいかわらず自分の頭の悪さに嫌気がさす毎日。生きること、可能なのだろうか。

科学哲学という営みはどうつながるのか。わからないが。いやはは。

何もやっていないというか、ユーモアの実在性というか「〇〇(という事物)は面白い」とか、「〇〇はユーモラスである」とかを言うのが果たして可能なのか、ということを考えていた。発端は「感情の哲学入門講義」のユーモアの項での定義づけ(ユーモアは対象がもつ特徴とする)に引っかかりを覚えたからである。

とはいえこれは単なるいちゃもんでしかないよな、とも思いながら。そもそも、コントやら絵画やらという本項で列挙されてるのを見るに、ここでのユーモアとは「作者を持った事物」(作者というか意図というか)であり、単なるモノはその対象外であって、であると私のこの考えは全く無意味なのだが。

私は「性質」のなんたるかを分かっていないし、そもそも本書でのユーモアは「特徴」であって性質ではない(じゃあ特徴と性質はどう違うのか)とかもあるが、まあとりあえず私は特徴=性質と考えて、というか考えてしまって、でそうなるとユーモアってこの世のあらゆるモノが持ちうるよなあ、となる等。

ただ、あらゆるモノが持ちうるというのは何もユーモアに限った話ではなく、それこそあらゆる価値性質「こわい」「エロい」はあらゆるものが持っているとも言える。

ので、あまりそれは問題では無いのかな、とも思う。何が言いたいのやら。

言いたいのはユーモアの扱い方についてである。。要するにユーモアを持っているのは事物ではなく、事物とそれを取り巻く環境との落差であり、それはまた鑑賞者の状態(テリック、パラテリック)に依存する。だから、「〇〇という事物が面白い」というのは本当は言えない(言えるにしても、それは字義通りのものではない)のではということである。

いや、ちゃうやんねえ。そない、そないなことが、ねえ?

別にこんなことを言ったところで、私だって〇〇が面白いと言うし、別に当座の意味合いが通じればそれでよいのだし。今〇〇が面白い、というのはある程度の時期は通用するだろう。

しかしまあ何かありそうだし、ぐのーという感じである。

実体主義の文脈で「力能」という言葉が出てきて、これはユーモアに援用できるわねと思ったが「力能」も正直突っ込みどころない?とか考えちゃってもう。

「壊れやすさ」は「力能」?らしいんですけど、けど全部「壊れやすさ」持ってるじゃんね。

嘘のおせち、うせち。