切り取り線の付いた遺書

休学を考えてる国文四年。ゴミでもあり。

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私に能力がないのははっきりしているのだから、とっとと死んだほうが良いのは確かである。

ただ、結局これは「死ぬのはアパートの事故物件化とか捜索費用とか葬儀代とか親とか兄とか介護問題とかを考えたら無理だよね」という結論に行くだけなので、堂々巡りである。なのでまあ生きるのだが、この話も何回目だ。

能力が無いから死のうという話なのに、生きることを真剣に考えねばならぬというのは訳が分からない。就職支援課とか、精神科を頼るほかない。しかし、私は未だに就職支援課に赴くことも精神科を予約することも出来ずにいる。だから発達障害なのだが、それを直すにも邪魔をするとは何事か。

自殺オフ会とか、仮に行ったとしても恐らく私よりよほどきらびやかな人間がいるのだろう。

憂鬱というのは一種の準備態勢というか、今後の展望の価値を0と認識させることで自殺を正当化させているのでは、とか思ってしまう。

平和である。今日も今日とて。しかし、私は情弱だからやはり悲観的に捉えてしまうし、ならばいっそとも。いやまあ、なんだろうか。

私には素質がなかった。それに尽きる。もう終わりにしてしまいたい。

新しいことを、無駄なのだが、しかしまあしなくては。やるべきことも。やるべきことをすると寿命が延びる。刑期も。世の中というのはシビアで、私はそのシビアさから逃げることを非難するのはよくわからないのだが。少なくとも苦しさの中に生きる義務というのは変な話で、それはどういった理由に基づいているのか。現行人類のシビアさというのは人口減少によってより厳しくなるから自殺はいけないのか。

シビアさが私は曖昧な使い方をしている。ダメな論理。なんだね。眠い。寝てはならぬが。深夜は鬱々となり、結果駄文をポイ捨てする。これを連続して。私はやはり死ぬべきというか、まあ私のために私は死ぬべきで。

生きている意味が分からない人間は多いらしいし、じゃあ死んで良いのではとも思うのだが。ここでもやはり語の定義が曖昧で、意味はないと言いながら何の気なしに生きている人間の用法とはまた区別すべきである。まあ、私はそちら側だが。

ははは。私は何も持っていないし、何かを持つこともできない。他の人間は私を見てそれとは分からないだろうが、しかし私は今日見聞きしたことを反復するのすら厳しい。この悩みは一生理解されないだろうから、まあ死ぬほかないのだが。

誰か私の存在の代わりだけこなしてくれやしないか。そうしたら私はもう好きに出来る。

そんな、パイの取り合いをしてまで私が何かをする意味は無い。人は途方もない。多すぎる。しかし、私は私でしかないらしい。なんてこった。それは代替可能であるべきだろう、本当に根本的な意味で。