そんなコッタ

前向きな話だ。なんとか短期間で出来る省エネ作品を作らねばならない。

いや、ならないことはないのだが。しかし私の中にあるうっすらとした希死念慮はやはり消えることは無いし、ならばいっそそういった世界に身を投じなければならないし、それにはある程度の実績が必要だ、ということである。

論理的、じつに論理的である、私のライフプランの一切は完全無欠の合理性によって組み上がっているというわけだ。ははは、今すぐに死んでしまおうか。

とはいえ私には卒論があり、精神科のあれこれと発達障害のあれこれと母親に関するあれこれとがある。どうするか、どうするか。いや、しかし就職なんて言うのは働き手を求めていなければおとなしく働かない方が良いわけである。はずなのだが、やはり空白期間は問題となるらしいしな。なんたることか。やはり今すぐ死んでしまおうか。

いやまあ、私はいざとなれば死ねば良いという精神でやっており、そもそも来年の10月に死ぬのが前提だったはずである。それを思えばまあ、良いのだろうか。

死にたい、死にたい。なぜ死なないかと言えば私より先に母親が死にそうだからであり、そこに私の死が重なれば父親のダメージが計り知れないからである。天涯孤独の人間はなぜ死なないのだろうか、それは私がその境遇に立てば分かることだろうか。

現状私は自分の将来の指針を自由に決められるだけまだ恵まれている方なのだろう。ただまあ、選択できる苦しみというか、選択できる立場に居ながらその行動力と理解力と教養のなさのために満足な選択が出来ずにいるというのも苦しいものなのである。

人生とhあたぶん9割の人間にとって苦痛で、じゃあなんで生むんだろうねとかも考えてしまう。人生は苦があってこそ、というのは分かるが、それは生きている人下の理屈だろうとも思ってしまう。純粋な疑問というか、人生楽しいと思っている人間が産むのは分かるがはあ人生は辛いことばかりねと言う人間が産むのは本当に理解できないのだ。

なんだこれ。こういう議論は不毛だ。延々と無限ほこりボールを叩くという行為を我々は止めなければならない。

とりあえず卒論である。とりあえずで出来ないから悩んでいる。インターンとか何で行くんだとかも思ってしまうが。一日とかそこらでねえ。いやはや、世の中嫌すぎる。まあまだ出来ることアルだろうということで相変わらず生きるのだろうが。しかしまあ無理だろうねとも思うね。うんこうんこ。