ゴミカラス
うんこである。要するに何もやっていない。
いや、やるにはやっていたのかもしれないが、それが明確な結果として表れてはいないのである。ははは。
卒論は出せず、母は死んだ。生きる意味は失われるはずだったが、父親という存在は思ったよりも思ったよりであった。
まあ死ぬ。それはそれとして死ぬ。10月に、かは定かではない。私はその覚悟をとうに失ってしまった。やれることはあるのだろう、と思う。思うのだろうか。
発達障害の関連で、そういった就労のための施設に通い始めた。大学と並行して、である。
いや、やれない記はする。やらねば。死ぬか。死んだ方がよい。死ぬ前に出来ることはある。人生とはこのループであり、世間はそのループと関係なくまっすぐに時を刻む。なんてこったい。
母が死んだ。12月の中旬であったか。いやはや。
なぜ生きているのか。何がしたいのか。私はこの四ヶ月何をしていたのか。
エルデンリングはやった、がせいぜい一週間程度のことであり、その他は検討がつかない。私は何を。訳がわからない。直視したくないのか。しかし本当にわからない。
時間が経つのが早い。本当に。死のう。死のうと思う。
死ねば良いのである。死ねば良いのだ。
死は全てを解決する。のである。
まあ答えを出すのはまだ先でもよい。とうに出ている物を。死ねば良い。
私は死ぬべきである。死ぬべきであるか。死ぬべきである。死ぬとは何事か。
死のう。
そんなコッタ
前向きな話だ。なんとか短期間で出来る省エネ作品を作らねばならない。
いや、ならないことはないのだが。しかし私の中にあるうっすらとした希死念慮はやはり消えることは無いし、ならばいっそそういった世界に身を投じなければならないし、それにはある程度の実績が必要だ、ということである。
論理的、じつに論理的である、私のライフプランの一切は完全無欠の合理性によって組み上がっているというわけだ。ははは、今すぐに死んでしまおうか。
とはいえ私には卒論があり、精神科のあれこれと発達障害のあれこれと母親に関するあれこれとがある。どうするか、どうするか。いや、しかし就職なんて言うのは働き手を求めていなければおとなしく働かない方が良いわけである。はずなのだが、やはり空白期間は問題となるらしいしな。なんたることか。やはり今すぐ死んでしまおうか。
いやまあ、私はいざとなれば死ねば良いという精神でやっており、そもそも来年の10月に死ぬのが前提だったはずである。それを思えばまあ、良いのだろうか。
死にたい、死にたい。なぜ死なないかと言えば私より先に母親が死にそうだからであり、そこに私の死が重なれば父親のダメージが計り知れないからである。天涯孤独の人間はなぜ死なないのだろうか、それは私がその境遇に立てば分かることだろうか。
現状私は自分の将来の指針を自由に決められるだけまだ恵まれている方なのだろう。ただまあ、選択できる苦しみというか、選択できる立場に居ながらその行動力と理解力と教養のなさのために満足な選択が出来ずにいるというのも苦しいものなのである。
人生とhあたぶん9割の人間にとって苦痛で、じゃあなんで生むんだろうねとかも考えてしまう。人生は苦があってこそ、というのは分かるが、それは生きている人下の理屈だろうとも思ってしまう。純粋な疑問というか、人生楽しいと思っている人間が産むのは分かるがはあ人生は辛いことばかりねと言う人間が産むのは本当に理解できないのだ。
なんだこれ。こういう議論は不毛だ。延々と無限ほこりボールを叩くという行為を我々は止めなければならない。
とりあえず卒論である。とりあえずで出来ないから悩んでいる。インターンとか何で行くんだとかも思ってしまうが。一日とかそこらでねえ。いやはや、世の中嫌すぎる。まあまだ出来ることアルだろうということで相変わらず生きるのだろうが。しかしまあ無理だろうねとも思うね。うんこうんこ。
ポポ
相変わらず頑張れてはいないわけである。
が、まあ塞ぎ込むということもなく、映画を見たり小説を読んだりして緩やかに絶望に向かっている。
卒論がいよいよ一ヶ月後くらいに締め切りであり、私は一ミリも書けていない。最悪来年、とも思うのだが母が危篤の状態にあり、なんとか今年に卒業した方がよかろうという感じだ。
いやまあ、無理なのだが。しかし、やらねばならない。
死にたいという思いはやはりあり、一方で母が死ぬまで(というか、父が母の病床に伏す姿に泣いているのを見ると父の後に死ぬのが良いのだろうが、難しそうである)はまあ死ねないよな、と。
結局努力らしきものは出来ないまま、それでも外部の機関に頼ったりもしつつある。
自閉症?と診断されたことで、毎週金曜日に学生の自閉症者向けのプロジェクトに参加できることになった。先日一回目を終え、今後は卒論を進めるための指導をやっていく運びとなった。
果たしてどうなるやら。せめて三年次に知れていればな、と思わずには居られないが。
しかし就活や卒論やらが差し迫ったからこそ私の性質が浮き彫りになってきたというのもあるので、それは不可能だったのだろう。
最近は人と関わることが増えた気もする。いや、親密になるとかはなく、単にわたしの気のせいかもしれないのだが。ただ、この四年で新しい人間とプライベートとして関わったのは初めてな気がする。
大喜利という趣味がまさか出来るとは、二年の段階で死んでいたと思うと、なんとも不思議な話だ。
ただまあ人生は続く。およそ私の及ばない速度で世の中は回り、生きていけるかは分からないが、まあ死ぬしか無くなったら死ねば良いのである。
こんな思惑の人間ばかりで世が回っているのもまた事実なのだが。苦しい。
大変だー。
エンジョイ勢
人生に相変わらず進展は見られないが、以前のように自殺願望で塞ぎ込むということは無くなっている。のか。わからないが。頻度は減っている気がする。
いや、死ぬかも。
私は自分の展望を、その馬鹿馬鹿しさのためにどうしても言い出せないし自分でもその展望の通りに向かうと思っていないため結果として自殺という安直な帰結に至るのだが、しかしまあ大丈夫な気もする。大丈夫な気がする、という私の気質のために私は自殺を図るのだが。何なのだろう。死んでしまえたらいいのに。未練はあるが、しかし死んでみればそんな未練も消えて無くなるのだから。死ねば良いのに。
生きるでーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
うんこ。
死ぬには早い訳でもなく遅いくらいだがしかしもうちょいね。
保つか知らんが。
発達障害の機関を頼るとか、そういうやり方でしかもうどうすることも出来ないし、その割にじゃあ重度の発達障害かと言われれば恐らく全くそんなことはなく、どうしてしまおうかという感情が募るのだが、しかしどうしようもないのだからどうしようもないのだよなははははははなんなんだなんなんだどうしようねどうしようねどうしゆねどうしょううえおじおぴおjhどぅいづっっひよひお
ういyふう
ふふ
ううう
ふh
gふdhくぅふwd
宇dgw区うふっ歩h津宇3デュh宇夫婦デュw区ws津qデュswh食えデュwqhg杖宇wd具gdqwdぇwqydgygでyg不意ヅイエニエf値yチュヴュyt部位荻生一yb宇vyvby具ビェウイェウツッツgr値rtg9義yrghっっっっっっっっっt
がんばるぞー!
!!!
頑張るのだ
いや分からんが
頑張れてないからこうなのだが
とはいえ計画的な自殺ほど馬鹿げたことも無いのだし、部屋の整理やエンディングノートを書くに留めておくべきである。
うんいおj
ういじお
へへへ
てつたや
じsだうぇ
へうwhふ
ういぐ
へふhふふえfふふぇ
うへうふいえw
うhづふd
す
しn
しんで
しdんd
しn
じ
ひひっひ
働くってどんあ感じなのだねだ
んうい
鬱っぽいことを考えない!鬱っぽいこと考えるのは30分まで!で解決するなら苦労しないねんな
わーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい
いつ死ぬか
いやまあ、生きます。
生きてれば良いことがありますからねえ。
知らんけど。
わたしはどう考えても同年代の人間より遙かに劣っているし、正直どっかおかしいのだが、どうやら正常であるらしい。
友達は居ないが。
大学にも通えないが。
趣味も、没頭できる物は無いし、突出したスキルや知識もなく、仕事も要領が悪いが。
正常なのでがんばなあかんねー。
いやまあ頑張れないからイマの状態なのだが。
まあ自助として自殺もねという感じだ。
んほほ。
とりあえずスマートドラッグ、とやらを試してみる。これも自助の一環である。
世の人間はそうしたやり方でなんとかしのいでいるらしい。えらい。素晴らしいね。
米俵
学問的素養がない人間になぜ学問をさせるのか
うんち、。
df
f
えdf
er
うhhgべfyhyyyyyyyyyggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggggg