訳もわからず

昼夜逆転の結果、訳も分からず泣いていた。訳が分からない。私は自分の情緒のめちゃくちゃ具合についていけそうにない。

死ぬ。訳にはいかないので、少し旅行先を調べてみるなど。銚子はまあまあ安げで、バイトでもすれば二泊分くらいはいけそうである。

死に緩やかに向かっているのか。あくまで踏ん切りをつけるためであって、死ぬことはないと信じたい。しかし、まあ。相も変わらずという感じである。

トロープ説をユーモアに援用してみよう、みたいな考えにふと思い至った。のだが、トロープをろくに知らないからこその発想である。

ユーモアが対象の持つ性質だ、というのがまあ直感的理解であるし、その方がもろもろ都合が良いのでそのままでもいいのだが。しかし対象が持つ性質というにしても、それが複合的にユーモアになっているのか、とかそもそも対象が持つというにはユーモアに対して抱く評価が時代や地域ごとに変わりすぎだろう、というのがある。

しかしこれがトロープとどう関わるのか、やはり意味ないのでは。いや、トロープの条件を満たさない=ユーモアは個別の事物が持つ性質ではない、と言えるのか。

ユーモアの定義づけを出来たとして、何か意味があるのだろうか。そもそもユーモアとエスプリの違いもろくに分かっていない。

文化値のような、受け手側の変数を設定するのは、私の仕事ではない。が、必要にはなるだろう。少なくとも、ユーモアが受け手に依存しているのは確実と思われる。

例えば、コントは何がユーモラスなのか。コント全体の構成が、ということであろう。

あらゆる事物はユーモアという性質を発揮しうる、というのが今の考えに一番近い。あくまでユーモアは事物ではなく、事物の間の落差や構造を指すののだ、というのが現段階の見解である。これを、価値的性質と呼ぶかについては議論の余地があろう。

ユーモアは客観的か。よくわからないのだが、例えばナイフの持つ危険性は価値的性質なのだが、もし人間がナイフで刺しても傷一つ無い、みたいな状態になったとしてもなおナイフの価値的性質はゆるがないのか。ユーモアの客観性というのは、それくらいの強固さがなければ成り立たないと思われる。