うんばば

「私には何か人並み外れた才能があり、今は何もなしえていないがその気になれば偉業を成し遂げられるだろう」という人間普遍の病理を、ではなぜ病理として扱わないのだろう。

上記のようなことが頭から離れず、それによって困っているというならそれは立派に施術の対象だろうと思うのだが。実際はそういった症状への対処は行われているのか。もし行われていないのならそれはなぜか。

わからないことだらけだ。本当に、無知を自覚する度に死にたくなる。

うにゃらか

自殺、権利としてはあるはずで。

生きるのはやはり難しいし、自殺もやはり毎日考えてしまう。なので親に死ぬ旨を伝え、親孝行できず申し訳ない。納得してくれ。と言えればよいのだが。

例えば自殺する日を決めて、それまでの期間に周囲の人間に対して出来るだけのことをして、身辺整理を進めるという若年層向けの終活というのはあり得て良いと思うのだが。実際は自殺する旨を伝える段でまず止められるだろうし、周囲の人間にとっても精神的な負担が大きい。しかし、自殺というのはもう少なくない人間にとってほとんど避けられないことなのだから、死ぬことを前提にした取り組みだってあって良いのではないか。

わからない。生きるが。親が生きている間は恐らく生きねばだ。しかし、私はもうだめなのだ。ダメな私が、ダメなままに生きていくというのは正直しんどい。なぜだろう。体が追いつかないのだ。

私は図書館の貸出期限を守るとか、延長を申し込むとか、分からない単語を調べるとか、エントリーシートを書くとか、あらゆる作業が苦手なのだ。

これは果たして直せるものなのか。どうにか直そうと取っ掛かりとしてカウンセリングを申し込み(これだって本当は三年前に受けておくべきだったのだ)、その一環で知能検査を受けた。

どうやら言語性IQと動作性IQの二つがあり、その数値に15以上隔たりがあると発達障害の傾向が高くなるらしい。で、私はその差が40あった。

これまでの私のダメさは発達障害に由来するのだろうか。実際は発達障害でも困ってない人はいるそうだし、あくまで単なる傾向ではっきり障害と決まったわけでもない。

ただ、思い当たる節はあるし、中学校の時点で親には発達障害の気があると何度か言われていた。

高校二年の時に行った精神科医を少し恨めしく思う。あのときから今と同じような症状はあったのだから、何か貰えはしなかったのか。

生きるしかない。しかしどうやって。道はいくつもある。ただ、気持ちの面ではもうだめだ。私は自分が嫌いだ。

死ぬのはまずい。親のこともあるし、友達のこともある。だが、やはり死んでしまいたい。

気持ちは楽になるわけではなく。結局私は。

いつまでも同じ所をぐるぐると。これ自体、平凡なことで。私は一生どこかに埋もれている。じゃあ消えても、とはならないのだ。いっそ何もかも、とも。

卒論の中間発表の原稿を書かねばならない。ユーモアの具体例をネットで適当に調べて、それを書けば後はトントン拍子でなんとか行く、と思う。ただ、その簡単な作業のために私は五日ほど費やしている。

一年後に死ぬ、と決めてしまえば。しかし、一年後も親は健在であるし、恐らく友人も。死は許されない。

頑張るぞ。頑張れないからこうしているのだが。無意味な宣言を。

唯一の友達と頻繁に連絡を取っている。もっと自分を過大評価して、努力すべきだと言われた。これは、的を得ているのか。はたして。私にも私は分からないし。かといって彼も私の空虚さを知りはしないだろう。

努力を。いや、まあ。

明日以降何か、またブログを毎日とか。ただ、メンタルをすり減らすだけというのも知っているのだ。

生きている。生きている。お前は今日生きていた。

十六日目

そうであったりもする。

あいかわらず自分の頭の悪さに嫌気がさす毎日。生きること、可能なのだろうか。

科学哲学という営みはどうつながるのか。わからないが。いやはは。

何もやっていないというか、ユーモアの実在性というか「〇〇(という事物)は面白い」とか、「〇〇はユーモラスである」とかを言うのが果たして可能なのか、ということを考えていた。発端は「感情の哲学入門講義」のユーモアの項での定義づけ(ユーモアは対象がもつ特徴とする)に引っかかりを覚えたからである。

とはいえこれは単なるいちゃもんでしかないよな、とも思いながら。そもそも、コントやら絵画やらという本項で列挙されてるのを見るに、ここでのユーモアとは「作者を持った事物」(作者というか意図というか)であり、単なるモノはその対象外であって、であると私のこの考えは全く無意味なのだが。

私は「性質」のなんたるかを分かっていないし、そもそも本書でのユーモアは「特徴」であって性質ではない(じゃあ特徴と性質はどう違うのか)とかもあるが、まあとりあえず私は特徴=性質と考えて、というか考えてしまって、でそうなるとユーモアってこの世のあらゆるモノが持ちうるよなあ、となる等。

ただ、あらゆるモノが持ちうるというのは何もユーモアに限った話ではなく、それこそあらゆる価値性質「こわい」「エロい」はあらゆるものが持っているとも言える。

ので、あまりそれは問題では無いのかな、とも思う。何が言いたいのやら。

言いたいのはユーモアの扱い方についてである。。要するにユーモアを持っているのは事物ではなく、事物とそれを取り巻く環境との落差であり、それはまた鑑賞者の状態(テリック、パラテリック)に依存する。だから、「〇〇という事物が面白い」というのは本当は言えない(言えるにしても、それは字義通りのものではない)のではということである。

いや、ちゃうやんねえ。そない、そないなことが、ねえ?

別にこんなことを言ったところで、私だって〇〇が面白いと言うし、別に当座の意味合いが通じればそれでよいのだし。今〇〇が面白い、というのはある程度の時期は通用するだろう。

しかしまあ何かありそうだし、ぐのーという感じである。

実体主義の文脈で「力能」という言葉が出てきて、これはユーモアに援用できるわねと思ったが「力能」も正直突っ込みどころない?とか考えちゃってもう。

「壊れやすさ」は「力能」?らしいんですけど、けど全部「壊れやすさ」持ってるじゃんね。

嘘のおせち、うせち。

哲学。二年次の専攻決めで、私は「一番人気がなさそう」という自分なりの遠慮の表現として哲学科に進むことを決めたわけだが、四年次の今必要に駆られて触れてみるとこれがなかなか楽しい。

私は集中力が続く人間ではないし、頭も良くはないからあれなのだが、もし叶うならアカデミックな方面に進んでみたかったな、という気持ちもある。

とはいえ、もし院に進んでみたとしても熱意が続くのかどうか。

読みたい本が色々ある。そのどれもに触れるのは難しい。やらねばならぬことがあるし、やらねばならぬことに背を向けている時はもっと何にもならないことに時間を費やしているというのが私の常である

つくづく私はだめだなあ、と。

死ぬのも難しい。あと十年ほどは、少なくとも生きなければならないだろう。生活をしながら。ただ生きるというのもなかなか労力のいることで。私にはもう。

書いている。インクの染みくらいは残しておくべきだろう。

何もない。本当に、こんなことを書いている場合ではなく。

 

訳もわからず

昼夜逆転の結果、訳も分からず泣いていた。訳が分からない。私は自分の情緒のめちゃくちゃ具合についていけそうにない。

死ぬ。訳にはいかないので、少し旅行先を調べてみるなど。銚子はまあまあ安げで、バイトでもすれば二泊分くらいはいけそうである。

死に緩やかに向かっているのか。あくまで踏ん切りをつけるためであって、死ぬことはないと信じたい。しかし、まあ。相も変わらずという感じである。

トロープ説をユーモアに援用してみよう、みたいな考えにふと思い至った。のだが、トロープをろくに知らないからこその発想である。

ユーモアが対象の持つ性質だ、というのがまあ直感的理解であるし、その方がもろもろ都合が良いのでそのままでもいいのだが。しかし対象が持つ性質というにしても、それが複合的にユーモアになっているのか、とかそもそも対象が持つというにはユーモアに対して抱く評価が時代や地域ごとに変わりすぎだろう、というのがある。

しかしこれがトロープとどう関わるのか、やはり意味ないのでは。いや、トロープの条件を満たさない=ユーモアは個別の事物が持つ性質ではない、と言えるのか。

ユーモアの定義づけを出来たとして、何か意味があるのだろうか。そもそもユーモアとエスプリの違いもろくに分かっていない。

文化値のような、受け手側の変数を設定するのは、私の仕事ではない。が、必要にはなるだろう。少なくとも、ユーモアが受け手に依存しているのは確実と思われる。

例えば、コントは何がユーモラスなのか。コント全体の構成が、ということであろう。

あらゆる事物はユーモアという性質を発揮しうる、というのが今の考えに一番近い。あくまでユーモアは事物ではなく、事物の間の落差や構造を指すののだ、というのが現段階の見解である。これを、価値的性質と呼ぶかについては議論の余地があろう。

ユーモアは客観的か。よくわからないのだが、例えばナイフの持つ危険性は価値的性質なのだが、もし人間がナイフで刺しても傷一つ無い、みたいな状態になったとしてもなおナイフの価値的性質はゆるがないのか。ユーモアの客観性というのは、それくらいの強固さがなければ成り立たないと思われる。

 

 

ニートども

いるらしい。何十万と。本当かよ。

私も半分ニート(半分ニートなので、真性のニートがこの自称をよく思わないだろうということもわかる)であり、その集団の一部になるということを真剣に考えねばならない。いや、真剣に考えるべきことが他にあるから半ニートなのだが。

ニート。どうしているのか。実際は失業中とか在宅ワークをしてるとかで、本当に真のニートは少ないのではないか。

私はもう、本当にダメなので。死ぬとか、なんとか。どうだろうか。ニートども。生きているのか。

きっと今後も私は現実を見ることが出来ずに、それでものうのうと生きることだろう。いやになる。いやになるな。分かっていて何もしないのがいやになる。

吐露である。ネットは広い。世界も。今日も陰でニートは生きるか、あるいは死ぬか。それを私が知るよしもないというのは、いつかの私にとって救いになるのか、あるいは。

やる気

やる気、ないと言うにはという感じだが。

私は何かの作業を続けることが出来ないので、「まずやってみればやる気は絶対出てくる」という言葉を全く信用していないのだが、しかしまあやる気が存在しないのは確かなのだろう。別に、「やる気が存在しない」と主張するのが悪いのではなく、それに相当する状態の存在すら否定するのがよくないだけで、脳科学者は逆に「やる気」という単一の概念で色々な状態をひとくくりにされることに抵抗があるのだろうし。

私の場合は一つの作業に無数のチェックポイントがあり、そのチェックポイントでちょっとしたトラブルに差し掛かると即座にそれまでのモチベーションが消える。何か解決策はあるのやら。問題は、課題をやろうとはしたということである。はたして。